
2021年10月31日から11月13日にかけて、英国グラスゴーで開かれた気候変動会議COP26。UAEが2050年のカーボンニュートラル目標を発表し、サウジアラビアとバーレーンは2060年、イスラエルは2050年の目標を相次いで宣言したとされます。中東における脱炭素を宣言する「第一の波」です。翌2022年、エジプトのシャルムエルシェイクで開催されたCOP27では、オマーンとクウェートが加わり、この地域の脱炭素をめぐる話題は次のフェーズへ進みます。主役はグリーン水素でした。エジプトはアフリカ地域で初めてグリーン水素事業の試運転にこぎつけ、オマーンは国営水素会社ハイドロムを設立しています。それから数年が経ち、中東・北アフリカ地域は2030年までに年間2500万トンの水素製造を見込むまでになりました。ただし現在の運用生産量は年間910万トンにとどまり、計画と実績の差はまだ埋まっていません。石油とガスで経済を築いてきた産油国が、なぜ需要も価格も定まらない水素という賭けに、資金を投じ続けているのでしょうか。
中東・北アフリカで2023年に最終投資決定に至った水素プロジェクトは、サウジアラビアのNEOMを含めてもごくわずかにとどまります。ジェトロドバイ事務所が2024年4月にまとめた報告書によれば、この地域はブルー水素とグリーン水素の双方において、世界最高レベルの製造コスト競争力を持っています。原料は安く、土地も日射量も十分にある。それでも計画が前に進まない理由は一つです。水素の「買い手」がどこにも見つからないことにあります。
報告書はその背景を5つ挙げています。水素に関する国際的な基準がまだ存在しないこと、規制の導入がようやく始まったばかりであること、水素の製造コストが依然として高い水準にあること、水素製造専用の再生可能エネルギー導入が計画より遅れていること、そして発電や輸送などCO2の排出量が多い産業において水素を実際に使う事例がまだ少ないことです。どれも一つの国だけでは解決できない課題です。
これは中東・北アフリカに限った話ではなく、世界共通の悩みだと報告書は指摘しています。資源も資金も条件がそろっていながら、需要という一点だけが欠けている。これが今の中東水素市場が置かれた実像です。

AI Generated Image of a vast hydrogen export terminal on a Gulf coastline seen from high above, empty loading berths and pipelines reaching into turquoise water with no ships docked, under crisp morning light
対象になっているのはUAE、オマーン、サウジアラビア、カタール、エジプト、モロッコ、バーレーン、クウェート、イラン、トルコ、イラクの11か国です。水素分野の調査を専門に手がけるカマール・エナジー社の分析によれば、これらの国の現在の運用生産量は年間910万トン、2030年までに積み上がる生産計画は年間1590万トンにのぼります。両方を合わせると2500万トンです。
| 区分 | 2030年時点の水素生産量 |
|---|---|
| 現在の運用生産量 | 年間910万トン |
| 2030年までの生産計画(追加分) | 年間1590万トン |
| 2030年見込み合計 | 年間2500万トン |
生産される水素はグリーン、ブルー、グレーの3種類に分かれます。グリーン水素は再生可能エネルギーで水を電気分解して作る水素で、製造過程でCO2を出しません。ブルー水素は天然ガスを改質して作る水素で、発生したCO2をCCUS(二酸化炭素回収・利用・貯留)技術で回収し、貯留します。グレー水素はCO2を処理せずに天然ガスから作る水素で、脱炭素の観点からは最も評価の低い区分です。
豊富な天然ガスを持つ産油国にとって、ブルー水素は既存のガス田や設備をほぼそのまま転用できる現実的な選択肢です。一方でグリーン水素は、広大な砂漠地帯に降り注ぐ日射量と吹きつける風という、石油に次いでこの地域が持つもう一つの資源を生かす道になります。

AI Generated Image of an extreme macro close-up of a hydrogen electrolyzer stack’s stainless steel bipolar plates with etched geometric flow-field channels, lit by cool blue-white industrial light with a glowing amber indicator in the background
報告書は、中東のブルー水素の価格競争力が世界最高水準にあると述べています。グリーン水素についても、2025年には1キログラムあたり2ドルを下回る見通しです。比較の対象になっているのは米国、ヨーロッパ、ロシア、中国で、製造コストを構成するのは資本支出、運転にかかる費用、そして原料となる天然ガスの価格です。
なぜ中東はここまで安く水素を作れるのでしょうか。理由は単純です。天然ガスの調達コストが世界のどの地域よりも低い水準にあり、太陽光と風力による発電コストも下がり続けているからです。ブルー水素にとってもグリーン水素にとっても、原料コストの低さがそのまま製造コストの低さに直結しています。
ただし価格が安いというだけでは、市場は動きません。水素の取引には長期契約や輸送インフラの整備、品質基準の統一など、価格以外の条件が数多く絡んできます。世界最高水準のコスト競争力という切り札を手にしながら、それを実際の販売実績につなげられていない。これが前述の買い手不在の問題と表裏一体の構造です。安く作れることと、売れることは、まったくの別問題なのです。
2022年まで、中東・北アフリカ諸国が描いていた水素戦略の基本形は、国内で水素を製造し、欧州やアジアの需要地に輸出するというものでした。ところが2023年、この構図に変化が生じます。買い手がつかない状況を打開するため、UAEをはじめとする一部の国が、外需から内需へと戦略の重点を移し始めたのです。
| 区分 | UAE水素戦略における需要見通し |
|---|---|
| 国内消費 | 67% |
| 輸出 | 33% |
UAEの水素戦略が示す需要見通しでは、国内消費と輸出の割合は67対33です。輸出よりも自国内で使う量の方が、はるかに多いという設計になっています。サウジアラビアも似た認識を持っています。水素需要は輸出より先に内需のかたちで生じるとみており、輸出市場の多角化を目指しつつも、まずは自国の石油・ガス産業における水素利用の拡大に力を入れています。
新たな水素の買い手として浮上しているのが、産油・産ガス国自身が抱える石油・ガス産業や、それに連なる重工業です。中東・北アフリカの各国は、2030年のCO2削減目標や2050年以降の脱炭素目標を掲げています。自国経済を支えてきた石油・ガス産業を脱炭素化しようとすれば、大量の水素が必要になります。しかもこの産業には資金力があるため、水素に必要な大規模な投資にも耐えられます。海外の需要が固まるのを待つよりも、自分たちの産業そのものを水素の顧客に仕立てる。これが2023年に見えてきた、中東の現実的な戦略です。

AI Generated Image of a ground-level view down a retrofitted oil refinery pipe-rack corridor at night, new hydrogen pipelines running beside old weathered steel pipes, lit by amber floodlights with drifting steam against a deep indigo sky
エジプトが水素事業に力を入れる背景には、皮肉な事情があります。天然ガスの豊富な産ガス国でありながら、国内の需給が逼迫しているのです。天然ガスはエジプトの一次エネルギー消費の6割程度を占め、2005年以降は国内に2基あるLNG輸出基地から余剰分を輸出してきました。しかし人口増加でエネルギー消費が拡大し、主要なガス田の生産量は急速に減っていきました。
| 年 | エジプトの天然ガスをめぐる出来事 |
|---|---|
| 2014年 | 天然ガス純輸入国に転じる |
| 2017年 | 東地中海のゾールガス田が生産開始 |
| 2019年 | 輸出量が輸入量を再び上回る |
| 2035年(計画) | 再生可能エネルギーで電力需要の42%を賄う |
2014年、エジプトはついに天然ガスの純輸入国に転じました。2017年に東地中海のゾールガス田が生産を始めたことで、2019年には輸出量が輸入量を再び上回ったものの、国内の需給に余裕があるわけではありません。2021年後半からはスポットLNG価格が高騰し、事態はさらに厳しくなります。イスラエルからのパイプラインガスの輸入を増やし、火力発電所の燃料を天然ガスから石油へ切り替え、2022年8月には商業施設やスタジアムでのガス消費を減らす計画まで策定しました。こうした対症療法は、中長期的には続けられません。
そこで浮上したのが再生可能エネルギーであり、その先にあるグリーン水素です。エジプト政府は2035年までに、再生可能エネルギーで電力需要の42%を賄う計画を掲げています。天然ガスという既存の収入源を確保しながら、新しい輸出産業をもう一本立てる。これがエジプトの計算です。実際にエジプトはアフリカ地域で初めてグリーン水素事業の試運転にこぎつけ、外国企業と20件以上の覚書を結んでいます。
オマーンもまた、グリーン水素で存在感を示そうとしている国の一つです。COP27の前後にオマーンは2050年のカーボンニュートラル目標を掲げ、国営水素会社ハイドロムを設立しました。ハイドロムはグリーン水素事業のための用地入札を、すでに始めています。掲げている目標は、2030年までに年間100万トンのグリーン水素を生産することです。
オマーンには広大な未利用地があり、日射量にも風況にも恵まれています。エジプトが天然ガスの需給逼迫という守りの動機から水素に向かったのに対し、オマーンは産油・産ガス国としての立場に加え、新しい輸出産業の柱をゼロから作るという攻めの動機で動いています。同じグリーン水素でも、国によって出発点はまったく違います。
エジプトとオマーンの2か国は、低炭素水素に関する国家戦略の概要を公表し、再生可能エネルギー由来のグリーン水素事業について具体的な取り組みを進めている点で共通しています。COP26からCOP27、そして2023年にドバイで開かれたCOP28まで、中東の産油国は毎年のように脱炭素の看板を掲げ直してきました。UAEはCOP28の開催国として、再生可能エネルギーと水素による脱炭素を加速させると表明し、日本企業との協業にも言及しています。看板を掲げることと、実際に買い手のつく水素市場を作ること。この間には、まだ大きな距離が残っています。

AI Generated Image of a row of towering wind turbines across a vast empty desert plain in Oman, seen from a low angle at blue hour, red aviation warning lights blinking atop each tower against a deep indigo sky fading to violet at the horizon
中東・北アフリカの水素戦略は、世界最高水準のコスト競争力という強みを持ちながら、買い手不在という壁に直面し続けてきました。UAEとサウジアラビアは内需の開拓に舵を切り、エジプトは天然ガスの需給逼迫への対応として、オマーンは新しい輸出産業の育成として、それぞれ異なる動機から同じ水素という賭けに向かっています。2030年に年間2500万トンという生産目標が実現するかどうかは、需要がどこまで追いつくかにかかっています。石油の時代に築いた資金力と広大な土地を、水素という次の資源にどう転換できるか。産油国たちの実験は、まだ途中にあります。